夢魔
「あの、……ご主人様、どうかなさったのですか?」
絶頂の余韻が解け、私の隣で満足げに息を弾ませながら、ロビンが聞いてきた。
思ってもみなかった質問に、私はギョッとした。
この犬の勘の良さに思わず舌を鳴らしたい気分だったが、表情に出さないように微笑んだ。
「どうしてそう思う?」
「だって、今日のご主人様、いつもより激しくて……」
慎ましやかに恥じらいながら目を伏せたロビンを、私はもう一度腕の中に抱き込んだ。
「……ああ、仕事がな。忙しくて……」
言いながら、深く深く唇を塞いだ。もちろん、それ以上の追求をさせないために、だ。
嬉しそうにしがみついてくるロビンの口の中を蹂躙しながら、内心私は溜め息をついた。
――情けない。犬にまで自分の変化を気付かせるとは。
一ヶ月前、私は犬としての調教を受けた。
それまでずっと、自分はトップであると信じて疑わなかった私だ。勿論調教も望んで受けたものではない。
ヴィラに纏わる黒い噂はとうに聞き及んではいたが、まさか自分がその陰謀に引っかかるとは、正直思ってもいなかった。
それまでの自分の浅はかさを呪っても、もはや取り返しがつかない。
あの時味わった屈辱、恥辱……そしてその奥の、できれば気付きたくなかった、めくるめく快楽。
(……犬に噛まれたようなものだ、さっさと忘れてしまえ)
そう思い何度も開き直ろうとした。
しかしどんなに忘れたいと願っても、まざまざと見せつけられた鏡の中のいやらしい自分の姿を忘れることなどできはしない。
……いや。
あのアクトーレスが担当でなかったら、少なくとも私はここまで苦しまなかったのかもしれない。
――ファビアン・マイスナー。
背の高い、見事な体躯の男だった。
黒髪で、浅黒い肌と落ち着いた雰囲気がエキゾチックな男の色気を漂わせていた。
私をずっと見続けていた、夜の海を思わせる黒い瞳。計り知れない深い闇。
あの日から、私の何かが変わってしまっていた。
それにしても、抱いていたのがフィルでなくて良かった。……あれは人の心の機微を鋭く読み取る、賢すぎる犬だから。
その点ロビンは頭は良いが、自分の主人を疑うことを知らない。素直で忠実で、私がついたウソも簡単に信じ込む可愛い犬。
「……激しいのは、キライか?」
「ああ、まさか……、そんな貴方も、素敵だ……」
貪るような口づけに呼吸を乱したロビンが、上気した薔薇色の胸を喘がせた。
そのエメラルドの瞳は期待に濡れている。
「……もっと、おれを可愛がってください、ご主人様……」
いじらしいおねだりに私は余裕たっぷりの笑みを返しながら、愛犬の体を組み敷いた。
甘く情熱的な主人の役に徹しながら、しかし頭の中は妙に冴えていた。
自分の密かな欲望を犬達に気付かせてはいけない。知られてはいけない――…。
かわいいロビンは私のそんな気持ちには気付かないまま、ふたたび私の愛撫に乱れ、溺れていった。
次の日、私が件のアクトーレス、ファビアン・マイスナーを見かけたのは全くの偶然だった。
それは昼間、ロビンを連れて円形劇場へ行ったときのことだった。
ここで私と共に芝居を見るのを、ロビンは何よりも楽しみにしていた。
今日も劇場へ行く道すがら、息せき切って「ご主人様、早く、早く」と私をせっつき、私は笑いながらそんな犬を愛おしく思ったものだ。
席に着き、幕が上がる前に足元に蹲ったロビンの柔らかい髪の毛を撫でてやりながら、ふと何気なく騒々しい対角の貴賓席の方へと視線を流した。
――ファビアンはそこにいた。
中年の太った男が、若い犬とファビアンを連れていた。ドクリと心臓が脈打った。
男は、何か粗相をやらかしたのだろう、恥じ入ったように泣きじゃくる犬(まだあどけない――15.6歳くらいだろうか)と慇懃に頭を下げるファビアンを大声で怒鳴りつけていた。
あのパトリキを私は知っていた。
偉大な父親の遺した莫大な財産を食いつぶすだけが能の、知性も品位のかけらもない男。
犬も、何体もダメにしていると聞く。
なぜそのような、金を持っていることしか取り柄のない男に甘んじて仕えているのか。
非常に不快だった。
そうしているうちに客席が静かになり、男もファビアンにたしなめられてようやく静かになった。
しかし幕が上がり、見目のいい俳優が朗々とした声で歌い始めても私のイライラは収まらなかった。
(なぜだ)
チラッと横目で見遣ると、ファビアンは男の後に恭しく控えている。
当然のことながら、私の方など見向きもしない。
(なぜ私ではない?)
おまえにふさわしい主人はその男ではない。この私だ!
「エッ?あの……ご主人様ッ!?」
劇の途中で突然立ち上がった私にロビンが素っ頓狂な声を上げたが、ほかの男に仕えるファビアンにも、そしてその事でどうしようもなく不快な思いをしている自分自身にも腹が立って、――演目は私も大好きなシェークスピアだったというのに、ろくに見もせずに劇場を後にした。
動揺する犬をさっさとドムス・レガリスに返し(犬に八つ当たりするなんて、飼い主失格だ)、呆然とするアクトーレスを捨て置いて、私はドムス・アウレアに戻った。
あの時なぜあんなにも不快に思ったか、答えは明白だ。
くそっ、私はファビアンに惹かれている――。
「ご主人様、本日のご予定はいかがなさいますか?」
翌朝、挨拶を済ませると、家令はいつもと同じ笑顔のままで、いつもとは違う言葉を単刀直入に切り出してきた。
昨日の私の行動は、アクトーレスからすでに話は伝わっていたのだろう。
今日はさすがに犬と遊ぶ気分ではなかった。
私は立てていたそれまでの予定をすべてキャンセルする旨を伝え、家令フミウスは嫌な顔ひとつせずに端末を操作した。
さて、何をして過ごそうか……。ぼんやりと考えていた私に、家令が遠慮がちに尋ねてきた。
「ご主人様。もしよろしければ昨日のお腹立ちの理由をお聞かせ下さいませんか?……ロビンかアクトーレスが何か粗相でも?」
「……いや」
私は額を押さえながら、ソファの背もたれにドッと体を預けた。
クレーム処理も家令の仕事のひとつだ。そしてそれは、時と場合によっては犬の生命やアクトーレスの首に関わってくる。
フミウスは表情にこそ出してはいないが、気がかりでたまらなかったに違いない。
「彼らは悪くない」
私の態度に動揺し、途方に暮れていた二人を思い出して、今更ながらに胸が痛んだ。
きっと眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
「……悪い主人だな、私は」
はは……と力なく自嘲する私をフミウスは、そんなことはございません、と首を左右に振りながら慰めてくれた。
「彼らに私が謝っていたと伝えておいてくれないか?」
心根の優しいフミウスはその言葉に目に見えてホッとした様子で、
「それは……結構ですが、では、何か他にお心を煩わせるようなことが?」
「……」
今度こそ私は口を噤んだ。
能無しのパトリキに優秀なアクトーレスが仕えていたのが気に食わなかった、なんて子供じみていて、とてもじゃないが人に言うべきことではない。
ましてやそのパトリキに嫉妬していたなどとは、口が裂けても言えない。
話す気などないことを雰囲気で悟ったのだろう、聡い家令はそれ以上何も追求しては来なかった。
「では、新しい仔犬でもご覧になりますか?ただいまは、ハニーブロンド・ブルーアイズのフランス産バレエダンサーと、黒髪に象牙の肌を持つ日本産の大学生が入荷いたしておりますが」
「……気分じゃないな」
フミウスは私の好みを心得ていて、いつもすばらしい仔犬を薦めてくる。
普段の私ならすぐに詳しいデータを見せるよう言いつけていただろう。しかし今日はそんな気にもなれなかった。
「……でしたら一度、ドムス・ロサエの方でお遊びになるのも気分転換になってよろしいかと」
元はと言えば、Cナンバーに手を出したきっかけはこの家令とのやりとりからだ。
とは言っても、フミウスは最後まで何度も忠告をしてくれていたのだが。
調教された時の私の様子はフミウスの頭の中にも正確にインプットされているに違いない。だからこそこういった提案もできるというもの。
(あそこに行けば、もう一度彼に会えるだろうか――……)
あのとき受けた苛烈な調教と共にファビアンの黒い瞳を思い出してしまって、私は無性に彼に会いたくなった。
「……あの時のアクトーレスはどうしている?確か、マイスナーとか言ったか」
フミウスにとってそれは予想外の問いだったのだろう。目を白黒させた。
「は?マイスナー?……ファビアン・マイスナーのことですか?」
「……いや、いい。なんでもない。忘れてくれ」
ドムス・ロサエでの調教はマギステルの管轄だ。アクトーレスの彼がいるはずがない。
バカなことを聞いてしまった。
私は努めてなんでもないことのように肩をすくめた。
「今日は読書でもしながらゆっくり過ごすよ。たまにはそんな休日もいいだろう」
「……仰せのとおりに」
つかの間フミウスは何かを考えていた様子だったが、すぐに極上の笑顔を浮かべると深々と一礼した。
フミウスの淹れた薫り高いアールグレイでアフタヌーン・ティーを楽しんだ後、私は窓際のカウチに寝そべって読みかけの文庫本を手にした。
今読んでいるのはハーレクイン。
冴えない駆け出しの女優と青年実業家とのニューヨーク恋物語。
ありきたりすぎる。第一、恋愛小説など全く私の趣味ではない。
だが、くだらないなりに何も考えずに読めるのがいい。
ここヴィラ・カプリは温暖な地中海性気候。そして今は一年で最も過ごしやすい、春。
白いレースのカーテンが風に吹かれてふわりふわりと揺れている。
穏やかな日差しと暖かい風、どこからともなく漂ってくるオレンジの花の匂い。
その中で私はいつの間にか心地よい午睡に誘われていたらしかった。
……誰かが入り口のカギを開けて部屋の中に侵入してくる気配があった。
(――フミウスじゃない……誰だ?)
侵入者は足音も立てず、まっすぐに私の方へと近づいてくる。
起きようとしたが、夢と現実の狭間で体はまるで金縛りにあったかのように固まって動かせない。
そしてまどろむ頭では、それが誰なのかすら確かめることも出来ず……。
私はあっさりと、その人物が傍に来るのを許してしまっていた。
(誰だ……私に近寄るな…!)
強盗か、殺人目的か……。まさか、セキュリティの厳しいヴィラの中で??
焦る気持ちの中、せめて姿だけでも…と必死に目蓋をこじ開けようとした。
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